賀茂神社 縁結び・安産・子授祈願愛

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

歴史・文化財

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歴史


寿永3年、源頼朝は征夷大将軍になり天下を治めるにあたって、この地を京都賀茂神社の新領地と認めました。また京都御所上賀茂神社「葵まつり」ではこの地より出た馬が走っています。
 

源 頼朝(1147~1199)
鎌倉幕府初代将軍。92年征夷大将軍に任ぜられた。

 
永禄11年(1568年)、徳川家康は頼朝 遠祖ゆかりの賀茂大社に参詣、ここに日本一の大旗を奉納、武運長久を祈願し征夷大将軍の道を歩み始め天下人になりました。これは後の「大旗神事」へとつながっていきます。また天正元年(1573年)に武田信玄が野田城を囲んだ際に、この城の救援に向かいましたが逆に敗走し、当神社の大楠の空洞に身を寄せて一命を取りとめたという逸話が残っており、そのため当神社を厚く崇敬したと言われております。
このことから、賀茂神社は「必勝祈願」「立身出世」のご利益があると言われております。
 

徳川 家康(1542~1616)
江戸幕府初代将軍。関ヶ原の戦勝を経て1603年征夷大将軍となり,江戸に開幕。

 
御神木「大楠」

御神木「大楠」

神事 


爪切り神事

天正元年(1573年)徳川家康公が武田信玄との野田城の合戦に敗走し、当神社の大楠の空洞に身を寄せ一命をとりとめた家康公は当神社を厚く崇敬し、後慶長八(1603年)征夷大将軍となって天下を平定すると神主を召し神領百石を寄進、このとき家康の乗っていた馬の爪がのびていた事から、爪切神事として今日にいたります。
 

大旗神事

徳川家康公は、永禄11年12月15日遠州出陣に際し当社に武運長久を祈願し、大旗を奉納されました。また天正元年6月、長篠へ出馬の際参詣、御旗料を奉納されました。やがて家康公が東三河を領有するようになり、御生祭用の大旗を奉納されたのです。これが当社春の大災に飾られる大旗です。
 
 

獅子冠

祭中心の行事で、氏子中の志願者より選ばれた物がこのお頭役を勤めます。この者は、斎戒一週間にして神事を預かることになっています。
 
 
 
 
 
 
 

藤四郎鬼面

例祭の日、氏子中より選ばれた者が鬼装束で式に従事します。この鬼が境内で撒く豆(菓子)を食べると、その年の夏を健康で過ごすことができると伝えられています。
 
 
 
 

競馬行事

春の大祭当日、神馬が6頭(各部落で奉納する馬)、騎手は烏帽子、直衣の姿で騎乗し、神門でお祓いを受け、獅子の舞、藤四郎についで一頭ずつ走ります。走る時は五色のテープをなびかせます。このテープ(ぬのびき)を貰うと幸運に恵まれると言い伝えられています。 
 

夏越の大祓 茅の輪くぐり

賀茂神社 社頭におきまして茅の輪くぐり神事を行っております。くぐる事により心身を清め新たな身体へと生まれ変わり無病息災を願う行事と云われております。また社殿では茅の輪くぐりご参拝特別祈願のヤタガラスの御守りもございます。
 
 

 

爪切り神事

天正元年(1573年)徳川家康公が武田信玄との野田城の合戦に敗走し、当神社の大楠の空洞に身を寄せ一命をとりとめた家康公は当神社を厚く崇敬し、後慶長八(1603年)征夷大将軍となって天下を平定すると神主を召し神領百石を寄進、このとき家康の乗っていた馬の爪がのびていた事から、爪切神事として今日にいたります。

大旗神事

徳川家康公は、永禄11年12月15日遠州出陣に際し当社に武運長久を祈願し、大旗を奉納されました。また天正元年6月、長篠へ出馬の際参詣、御旗料を奉納されました。やがて家康公が東三河を領有するようになり、御生祭用の大旗を奉納されたのです。これが当社春の大災に飾られる大旗です。

獅子冠

祭中心の行事で、氏子中の志願者より選ばれた物がこのお頭役を勤めます。この者は、斎戒一週間にして神事を預かることになっています。

藤四郎鬼面

例祭の日、氏子中より選ばれた者が鬼装束で式に従事します。この鬼が境内で撒く豆(菓子)を食べると、その年の夏を健康で過ごすことができると伝えられています。
 

競馬行事

春の大祭当日、神馬が6頭(各部落で奉納する馬)、騎手は烏帽子、直衣の姿で騎乗し、神門でお祓いを受け、獅子の舞、藤四郎についで一頭ずつ走ります。走る時は五色のテープをなびかせます。このテープ(ぬのびき)を貰うと幸運に恵まれると言い伝えられています。 
 

茅の輪くぐり

賀茂神社 社頭におきまして茅の輪くぐり神事を行っております。くぐる事により心身を清め新たな身体へと生まれ変わり無病息災を願う行事と云われております。また社殿では茅の輪くぐりご参拝特別祈願のヤタガラスの御守りもございます。

 
 

文化財 


 
 

賀茂神社本殿 1棟

県指定有形文化財 昭和36年3月30日指定
 
屋根が桧皮葺(ひわだぶき)の現社殿は、規模が比較的大きい一間社流造で、細部の手法に照らすと棟札にみえる寛永元年(1624年)新造とある際のものと思われます。ただし正面の向拝にみえる蟇股(かえるまた)の彫刻に菊の大輪をあしらうなど一部に桃山風の様式をとどめているので、おそらく別の棟札にみえる、慶長6年(1601年)に造立された時のものを再利用したと考えられます。

猿田彦古面 1面

県指定有形文化財 昭和33年3月12日指定
 
この古面は神事に使用されたもので、作風は古調を伝え雄偉のうちに力を備えた手法で、なかなかあなどり難いものを示しています。色彩は剥落していますが、頭部の浅い彫法・紐穴が2つある点などと合わせて、室町期に属するものと思われます。

 

猿田彦古面 1面

県指定有形文化財 昭和33年3月12日指定
 
この古面は神事に使用されたもので、作風は古調を伝え雄偉のうちに力を備えた手法で、なかなかあなどり難いものを示しています。色彩は剥落していますが、頭部の浅い彫法・紐穴が2つある点などと合わせて、室町期に属するものと思われます。

 

豊橋市指定史跡

神山古墳

昭和48年3月12日指定
この古墳は円墳で、墳丘の東側と南側が旧間川にけずられて急な斜面となっていますが、ほぼ完全な形で残されている市内では貴重な古墳です。規模は直径28m、高さ3.5mで円墳としては県内有数の大きさです。造られたのは6世紀前後と考えられ、豊橋北部をおさめた有力者の墓と推定されます。かつて、この古墳の付近には前方後円墳と伝えられる弁天塚古墳や大塚古墳(埴輪が出土)を始めとするいくつかの古墳がありましたが、現在残っているのは神山古墳だけです。この古墳は、別名「竜神古墳」とも呼ばれています。これは古墳の周囲かかる霧が竜のような姿になって昇天すると言われるところからつけられた名前です。